“会津の奇跡”――会津若松ザベリオ学園の改革 第1回

こんにちは。コアネット教育総合研究所の松原和之です。

今年4月に、地方の学校改革事例として書いた「会津の奇跡−−会津若松ザベリオ学園の改革」が好評なので、このブログに掲載しようと思います。ちょっと長いので、何回かに分けて連載しますので、是非継続してお読みください!

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
会津の奇跡”――会津若松ザベリオ学園の改革

2012年4月下旬、ゴールデンウィークの初日、鶴ヶ城の桜の花は満開を迎えていた。福島県会津地方の春は東京よりも1ヶ月近く遅く訪れる。しかし、鶴ヶ城にほど近い「会津若松ザベリオ学園高等学校」の改革の春は常識を覆すほど早めにやってきた。
2012年4月の入学者は264名。改革開始から2年で入学者は2.5倍に増加した。慢性的な定員割れという長い冬の時代を耐え忍んできた会津若松ザベリオ学園は、学校改革の季節感からいうと、あまりにも早く春の訪れを迎えた。なぜ、このように急スピードの改革ができたのか。“会津の奇跡”と呼ぶに相応しい会津若松ザベリオ学園の改革の軌跡を振り返ってみよう。

■「一番早く潰れる学校」と言われたところからのスタート

昭和8年にカナダから来日し会津若松に赴任したシスターたちが設立した会津若松ザベリオ学園は、設立以来ずっと無原罪聖母宣教女会のシスターたちによってカトリック精神を基盤として堅実に経営されてきた。しかし、少子化の影響で生徒数が減少し、その上、修道会としても後継者となるシスター探しに苦心していた。しかし、一縷の望みをかけて、最後の頼みの綱として、学校経営に精通した守屋博子氏を学園長に迎え、改革を託した。同時に、県立トップ校の校長経験者である関博之氏が教育面の責任者となり、改革の陣頭指揮をとった。それが2010年4月、今から2年前のことである。
守屋学園長は言う。
「当時は、カトリック学校で一番早く潰れる可能性のある学校と言われるぐらい危機的な状態の学校でした。前任の学園長は、5年間で改革の目処が立たなければ会津でのミッションが終わることも覚悟しているが、何とか発展出来る可能性を見つけてほしいと言って私に学校を託されました。」
実際、2010年4月の高校入学者は109名、中学校入学者は18名。いずれも定員を大きく割り込んでいた。学校経営としては瀕死の状態から改革が始まったといっても過言ではない。
関校長は、「私が赴任した当時、学校現場では、フラットファイルなど最低限必要な事務用品さえ買えない状況でした。生徒減で収入が減る中でのコスト削減が教師のやる気を削いでしまっている状態でした。」と述懐する。
経営状態だけでなく、教員組織も沈滞しており、学園のムードは最悪だった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
続きは後日!